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2018年1月30日 (火)

高校3年生:現代文の授業「言語」について

 
 言葉はコミュニケーションツールであるとともに、思考手段です。私たちは言語によって物事にラベルを貼って、それを認識する、と思いがちですが、「近代言語学の父」と称されるフェルディナン・ド・ソシュールによると物事の「差異」を言語によって分節して捉える、と考えられます。言葉には記号表現(音声言語や文字言語:シニフィアン)と記号内容(その言語が意味するもの:シニフィエ)とがあり、その結びつきは恣意的であるとされます。言葉によって我々は物事を「分節」して捉える、ということはいわば混沌(カオス)を秩序(コスモス)として捉え直すということにもなります。たとえば、私たちがおいしくいただく牛肉。これだけだとカオスです。お肉屋さんは「牛肉」というカオスを、例えば「ロース」「カルビ」「タン」「ハラミ」などと分節して(コスモスとして)捉えますね。その認識が必要だからです。また別の例を挙げてみます。「先生」と「教師」と「教員」。いずれもteacherという英語の和訳ですが、「生徒の面倒見の良い○○」、「熱血○○」、「○○免許」等という場合、私たちは無意識のうちに「分節」して訳をあてはめますね。そこにはその語が持っている「背景」「イメージ」等を考えつつ「物事を分けて捉え」、「言葉を選び」、「その言葉によってその物事を認識する」というプロセスが働いているのだと思います。
 高校3年生の「現代文」の授業では今、こんなことを皆で考えています。
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2018/01/30 | 教科から